内政手腕に優れた、元就長男の墓
隆元は元就の長子で、吉川元春、小早川隆景の兄にあたります。
父・元就や弟・吉川元春、小早川隆景に比べ、その存在は見過ごされがちですが、毛利氏が領土を中国地方全域に拡大していくなか、元就の後継者、毛利氏当主としての役割を務めた人物でした。
隆元の武将としての力量を語る上で欠かせないのは、天文22~23(1553~1554)年にかけて、大内義隆を倒した陶(すえ)氏との協力関係を継続するか、断交するかについての決断を迫られたときでした。この際、慎重な元就に対し隆元は、陶氏と断交し戦国大名として自立する判断を主張しました。
その後、弘治(こうじ)元年(1555 年)に厳島合戦で陶氏に勝利し、元就とともに弟・吉川元春、小早川隆景の協力を得て、「毛利両川体制」と呼ばれる強力な組織力で中国地方一円に勢力を伸ばしました。
毛利氏の転機ともいえる時期に、陶氏との断交を元就でなく隆元が主導したこと、そして「毛利氏両川体制」を確立したことを考えると、武将としての隆元の力量は再評価されるべきといえます。
永禄6(1563)年、隆元は41歳で佐々部(安芸高田市高宮町)にて急死しました。翌年元就や元春、隆景によって菩提寺、常栄寺(じょうえいじ)が建てられ、寺には正親町(おおぎまち)天皇執筆の「常栄広刹禅寺」の額が掲げられました。
寺は後に山口に移動しました。
所在地 | 安芸高田市吉田町吉田 |
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駐車場 | あり(無料) |
アクセス | 安芸高田市歴史民族博物館より徒歩約15分 |