尼子久幸の墓
臆病野州(おくびょうやしゅう)と罵倒された、冷静沈着な武将
吉田サッカー公園の近くにある、小さな山の山頂に尼子久幸の墓はあります。
尼子久幸は、中国の三大謀将の一人とされる尼子経久(あまごつねひさ)の弟で、尼子晴久の大叔父にあたる人物です。
天文9(1540)年の郡山合戦で、兄・経久の孫である出雲の尼子詮久(あきひさ)(晴久)が吉田の毛利元就を攻めました。合戦は4ヶ月にも及び、翌年1月、毛利援護の大内勢は、青山・三塚山の尼子軍の本陣を攻撃、晴久が危うくなりました。日頃慎重な久幸は、率先して撃って出、毛利氏の援軍の陶隆房(すえたかふさ)勢が三塚山の尼子勢を攻撃し、この際、久幸が討ち死にしました。この久幸の奮戦により、晴久は無事、出雲に退陣することができたといいます。
その亡骸がこの地に葬られたといわれています。なお、久幸の墓は島根県安来市の城安寺境内にもあります。