広島県の中心部にある安芸高田市は、中国山地の山々に囲まれた緑と清流の自然環境を有しており、北部を中心に畜産・野菜・果樹・花木・酒米等の特色ある農業が展開されています。
土師ダム、湧水満之記念庭園、神楽門前湯治村などが整備され、年間約140万の人が訪れています。
湖畔を囲む約6,000本の桜が美しく咲き誇る西日本有数の桜の名所です。桜まつり期間中、夜には約400個の提灯に照らされる夜桜を堪能できます。
吉田本通り一帯を2台のだんじり屋台が練り歩きます。 壇上では子ども歌舞伎が上演される、約350年の歴史を誇る清神社の例祭です。
毛利元就が3人の息子に三子教訓を唱える場面を武者絵巻にした、見ごたえ十分のパフォーマンスが披露されます。
毎年最後に開催される神楽共演大会です。各地で行われた競演大会で優勝した神楽団のみが出場できる、神楽競演大会の最高峰とも言われている大会です。
毛利元就が居城とした郡山城は、中国地方最大級の山城で、本丸を中心に放射状に広がる尾根を利用し、無数の
元就は、“
天正19年(1591年)に本拠を広島城に移したのちも郡山城は維持されていたと考えられますが、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、毛利氏が防長転封になり、福島氏の時代に一国一城令が出されたことにより廃城となりました。
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乗用車が4~5台ほど停められます。
毛利元就墓所や毛利一族墓所、毛利隆元墓所に一番近い駐車場です。
毛利元就墓所へは駐車場から5分ほど歩きます。
神乃倉山は、安芸高田市と広島市安佐北区の境にある標高561.2mの山です。
山頂の公園は、地元の方が30年の歳月をかけて整備されたもので、現在は有志の方々により管理され一般に開放されています。
春には桜やツツジ、フジなどの花が楽しめます。秋から冬にかけては時折、雲海を見ることができます。
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毛利一族の墓は、郡山城内、城下にあったそれぞれの墓を明治2年(1869年)にこの洞春寺跡の元就墓所境内に移葬されたものです。
向かって右側の一画の土盛は、郡山城初代城主:毛利時親から八代:豊元までの合葬です。
向かって左側の一画は3人の墓です。左端から24歳で亡くなった興元(元就の兄)、2歳で父:興元の跡を継ぎ9歳で亡くなった幸松丸、隆元(元就の長男)の妻の墓です。
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明応6年(1497年)、毛利元就は弘元の次男として郡山城で生まれました。兄とその子の相次ぐ死により、27歳で家督を相続し安芸毛利氏第12代当主となります。
安芸の中心的な国人領主として勢力を拡大、厳島合戦の勝利により周防長門、さらに出雲尼子氏を降伏させ中国地方を制覇しました。
初陣以来220回以上の戦いを生き残り、一代で中国地方の覇者に導いた名将でしたが、元亀2年(1571年)、郡山城内にて75歳で亡くなります。
墓内には浅野藩主や土生玄碩より寄贈された灯籠があります。
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御蔵屋敷は、東西約20m、南北約30m、面積600m2の広い敷地を持ちます。兵糧蔵跡と伝えられています。
北に釣井の壇、東に三の丸、西に勢溜の壇に通じています。この屋敷の東側に多くの散乱した石が有り、高い石垣があったと想像させます。
さらにその上の曲輪で通路沿いの一部に石垣(高さ12m、長さ35m)が残って、当時をしのばせています。さらにその一段上が二の丸になります。
郡山古城図(山口常栄寺蔵)に御蔵と書かれており、それがこの地と思われています。
大永3年(1523年)に毛利元就が27歳の時に郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、16世紀中頃から郡山全山に城郭を拡大していきます。元就はここを本拠地として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し遂げました。
郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、1辺約35mの方形の曲輪でなっています。その北端は1段高くなった櫓台が有ったと伝わっています。
城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしています。
曲輪も現在確認されている物だけでも、大小合わせて270段以上みられます。
大正4年(1915年)に築造されたこの公園の場所には、毛利氏時代興禅寺があり、この寺の南麓に内堀が掘られた記録が残っています。
元就が永禄10年(1597年)に京都から能役者の観世太夫宗節ら一座20人を招き、この寺で能狂言が催されたことが記録にあります。
当時興禅寺村の名前が残っており、寺領を与えていたので毛利氏の崇敬が厚かったことがわかります。
園内には「明治天皇聖徳碑」、「土生玄碩先生之碑」などがあり、現在は桜や紅葉が美しい公園として知られています。
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郡山山麓にあり、元禄7年(1694年)再建といわれる、拝殿と本殿が一体となった珍しい造りの神社です。特に戦国時代は郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所でした。
正中2年(1325年)から残る棟札があり、それ以前に創建が確実な古社です。例祭は毎年5月5日で、街中にみこし行列やだんじり子ども歌舞伎が繰り出す「吉田の市入」として有名です。
また、チーム名が「三本の矢」に由来する、サンフレッチェ広島が毎年必勝祈願に訪れる神社としても知られています。
毛利元就の故事である三本の矢からきた「三本の破魔矢」を購入できます。
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春の桜まつりなどイベントのメイン会場にもなる大きな公園です。
色んなタイプの滑り台があり、子どもたちに人気の遊具です。
屋台の出店やこども神楽などのステージイベントが開催され、多くの人で賑わいます。
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江戸時代、上甲立村の豪商 安国屋の当主 安秀は、8歳で亡くなった息子の菩提を弔うため、 文政5年(1822)摂津から浄土宗の本励上人を招いて建てたのが唯称庵です。
本励上人は学徳兼備の高僧と知られ、17年間この庵を拠点として各地で教えを説きました。
庵は明治に入り修理が行われましたが昭和35年(1960年)に解体されました。
現在は礎石と井戸、そして本励上人が京都の高雄から取り寄せたと伝えられるカエデの大木が往時の面影をとどめています。
昭和53年(1978年)10月に広島県の天然記念物に指定されました。
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安芸高田の新名物である地元産鹿肉や農家の皆さんが丹精こめて育てた旬の地元産新鮮野菜など「安心・安全」な商品を取り揃えています。
また、安芸高田市の食材を使ったご当地バーガーを購入できます。
ビーツを練り込んだ赤いバンズに、鹿肉がたっぷり入ったパテ、地物レタス・トマトを挟んだ照り焼きタルタル味のバーガーです。
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2020年4月にオープンした道の駅です。
三矢の里の「三矢」は戦国武将 毛利元就が三人の子どもに力を合わせるように説いた三矢の訓(三子教訓状)に由来します。
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安芸高田市の北の玄関口、レトロ浪漫がいっぱいの道の駅です。
施設内にある「ながいきラーメン食堂」では、ウコンを練り込んだ自家製麺を使った「ながいきラーメン」が食べらます。
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マツダスタジアム約6個分の広大でおしゃれな庭園には、4月の桜をはじめ、5月下旬に見ごろを迎える500種類5,000株の豪華なバラ園、10月のダリアなど人気の花々が色鮮やかに咲いています。
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神楽をテーマに美味しい料理や、天然温泉、そして宿泊もできる総合施設です。昔なつかしい温泉街を再現した町並みが訪れる人を癒やします。
施設内にある神楽専用の観覧施設「神楽ドーム」や室内で神楽を鑑賞できる「かむくら座」では、毎週末神楽が上演されています。
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安芸高田市の最高峰922mを誇る山です。登山経路が整備され登りやすくなりました。
二の丸は本丸の南につながり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっています。
東西36m、南北20mの広さですが、周囲を高さ0.5m、幅1mの石塁や石垣で27mと15mの方形に区画しており、実用面積は約400m2と本丸よりひとまわり小さいです。
また、この石塁の外側には、幅0.5mから1mの平坦面も見られます。
この二の丸の南側には、高さ約3mの石垣が残っていますが、この石垣は明治初年に行われた毛利元就墓所改修の際、ここから石を運んだという記録があるので、石垣は曲輪の東西両側にもあった可能性が強いです。
南にある三の丸へは、幅15mの通路があり礎石も残ることから、小型の桝型をした門、あるいは堀があったと思われます。
三の丸は、城内で最大の曲輪です。曲輪内は土塁や削り出し等によりさらに四段に分かれています。
二の丸とは、約35m下段にあって、東西40m、南北47mの広さがあります。西の段と南の段は石塁でへだて、北の段とも1mの比高差を持たせて石垣で画しています。
この西の段からは二の丸・御蔵屋敷につながる曲輪への通路がのびており、しかも西の段下の石垣や階段がみられるところからみて、登城には御蔵屋敷から南側の帯曲輪を経由し、その階段を上がるとこの三の丸虎口(西の段)につながると考えられます。
西の段は周囲を石垣や石塁で囲まれていることもあり、この部分が、郡山城のなかでは最も新しい時期の遺構であったと考えられます。
釣井の壇は、長さ75m、幅15m、面積約1,000m2の長大な曲輪です。
曲輪の基部には石垣が見られます。北に姫丸の壇、南は御蔵屋敷に通じ、ここから東側2段上が本丸です。
直径25mの石組井戸があり、本丸に最も近い水源です。深さ約4mあるこの井戸は、現在は埋もれていて水は湧いていませんが、掘ればかつてのように水をたたえると思われます。
本丸の北にのびる峰にあり、基部の段は通路で、西は釣井の壇へ、東は釜屋の壇へつながります。
ここから北への三段もほとんど比高差をもたず連なり、さらに北へ三段あるが、主要には基部の三段が機能していたと思われます。
基部の両側には一部に石垣も残っています。
この壇に基礎を置いた本丸の石垣中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたとの伝説があり、文化13年(1816年)夏、長州藩士 武田泰伸がこの石を見つけ、拓本にとり持ち帰ったと伝えています。
築城の時期は不明ですが、15世紀の後半には毛利氏の城として存在していたようで、当初は「本城」と呼ばれた郡山南東の尾根上が城の中心となっています。
元就が活躍した16世紀中ごろに、郡山全山が城郭化されるまで、約200年間毛利氏が居城とした場所です。
鎌倉時代の山城の形態がよくわかる城跡です。一時期、毛利隆元が居住していました。
駐車場やトイレがあるほか、公園内には東屋やベンチも設置されていて、憩いの場になっています。
春には桜が満開となり、市民の憩いのスポットとなっています。
郡山城は16世紀中頃に郡山全山に拡大されたとみられており、この石垣は、その整備が山裾まで及んでいたことを示しています。
石材の積み方や周辺の出土遺物などから、輝元が当主であった16世紀後半以降に築かれたと推定されています。
「少年自然の家」敷地内にあります。題字は元就の子孫にあたる毛利元道氏の揮毫です。
この地が毛利元就居館跡と伝わり、元就が臨終に際し三本の矢の訓えを諭したという逸話にちなんで、昭和31年(1956年)中学校生徒会の手で「三矢の訓跡」の碑が建てられました。
元就は、元亀2年(1571年)6月14日、75歳で亡くなりました。三原妙法寺の住職 嘯岳鼎虎禅師を招聘し、6月20日初七日の法会を営んだ後、この火葬場で荼毘に附しました。
嘯岳鼎虎禅師は、元就の逝去に際して葬儀の導師をつとめ、元就の菩提寺洞春寺の開山にもなりました。慶長4年(1599年)10月になくなります。このお墓は天明8年(1788年)山口洞春寺により建立しました。
郡山城の改修に際して、元就が人柱に代わり「百万一心」と彫った石を埋めさせた、という逸話を元に昭和6年、模刻し建設されました。
幕末に長州藩士が山中で「百万一心」の実物を発見したと自書していますが、現在に至ってもその石は未発見のままで、郡山城最大の謎となっています。
安芸高田市内を見渡せます。
郡山大通院谷の東側山裾に沿って、約100m続くV字形状の断面をした堀。
昔の薬を作るときに用いられた道具の形状から薬研堀といわれています。
堀は更に上下に続いていた形跡があり、ここを起点に郡山山麓を廻る内堀となっていたと思われます。
16世紀中頃~後半毛利元就・輝元時代に造られたと思われます。
青山と光井山を総称して青光井山と呼ばれています。
1540年(天文9年)から5ヶ月あまり続いた「郡山合戦」において、毛利元就と対峙した尼子詮久の本陣が置かれました。
郡山城のガイドマップが置いてあります。
毛利元就の菩提寺である洞春寺跡の入り口に立つ鳥居。
明和7年(1770年頃)、毛利元就200回忌の時に建立されました。
洞春寺は、毛利元就の三回忌にあたる天生元年(1573年)に元就の菩提寺として、孫の輝元が創建しました。
元就の葬儀の導師であった嘯岳鼎虎禅師を開山とした臨済宗の寺です。この地に建物があったと考えられています。
輝元の広島移城の際、広島城下に移りましたが、毛利氏と共に山口に移転し、まもなく萩城下に移されました。明治2年(1869年)に再び山口市内に移されました。
郡山城の本丸への登山口です。ゆっくり歩けば45分ほどで本丸へ到着します。
未舗装・急傾斜地を含む山道になりますので、必ず山道を歩くための運動靴・服装などの装備で登城してください。
郡山城史跡カイド協会では、郡山城跡の史跡を紹介するガイドツアーを実施しています。
ガイドツアーでは、郡山城跡の主要な史跡を気軽に観てまわることができる「山麓コース」と、山麓コースに郡山城本丸跡を含めた登城コース「本丸コース」の2種類があります。
その他にも、紅葉の季節などに不定期で大規模なガイドツアーイベントも実施していますのでぜひお気軽にご参加ください。
詳しくは郡山城跡ガイドのご紹介を御覧ください。
元就の墓には墓標の代わりとして"ハリイブキ"という木が植えられています。この木の原産地は中国で、日本に現存するハリイブキの巨木はわずかと言われています。このことから中国から取り寄せる権力と財力があったことがわかります。
ここに訪れた江戸時代の歴史家である頼山陽が吉田駅詩の中で「塋上老木槁不死(塋上の老木槁れて死せず)」と書いたことから江戸時代末期には枯れかかっていましたがまだ、生きていたことがうかがえます。
元就が亡くなった1571年6月14日(旧暦)に当たる新暦の7月16日(グレゴリオ暦)に、墓前祭は毎年行われています。
普段は柵の外側からしか墓内を見学できませんが、この日だけは中に入ることができます。
墓前祭当日はどなたでもお気軽に参加できます。
詳しくはあきたかた観光Naviをご確認ください。
毛利家の家紋は「一文字三ツ星」と呼ばれています。諸説ありますが、将軍星として崇められていたオリオン座のくびれた所にある「3つの星」を型どった説や、祖である一品親王の文字を図案化したとする説などが有名です。
元就墓所内にある灯籠には、天皇家の紋章「菊の御紋」がついています。当時貧窮していて、即位の礼を挙げることが出来なかった正親町天皇の資金を用立てて貢献し、使用を許された証です。
江戸時代初期の幕命「一国一城令」の際に崩された石垣がそのまま残っています。
江戸幕府の大名統制の一つ。
一領国一城という趣旨のもとに、大名の本城(居城)を除くすべての支城を破壊することを目的としたもので、大坂の役後の1615年(元和1年)閏6月、武家諸法度に1ヶ月先だって発布されました。
参考:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
勢溜の壇は、本丸の峰から南西へ長くのびる尾根を、御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、十段の大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500m2から700m2の広さの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えています。
この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸方向への防禦は厳重で、たとえ、この方面を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の壇の曲輪群から攻撃できる構造になっています。
ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえます。
櫓台は長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しいです。この地点が一番高く、標高389.7m、比高約200mになります。
郡山大師堂の境内には88体の地蔵尊が並んでいます。
毎年4月上旬の桜の季節には池を中心に満開になります。
市指定天然記念物の樹齢1,000年以上ともいわれる境内の杉は、毛利氏時代のものと推定されており、胸高周囲5.0mのものが最も大きく、4.6m、4.3m、4.8m、3.7m、3.2mの6本の巨杉でしたが、
1999年(平成11年)に台風で、吉田町天然記念物指定の「大杉6本」のうち1本が根元14mを残して折れ、境内に倒伏しました。
倒れた杉の根株は、根元の部分を地面下約1m掘り下げて切り出し、境内にモニュメントとして保存されています。
「椙若社」は、毛利元就が陸奥守であったころの発願とされ、元就の育ての母「椙(杉)の方」を祭った祠です。
元就は4歳で母を、9歳の時に父を亡い、孤独な生活を強いられましたが、母親代わりとなって育てたのが、元就の父、弘元の継室(一説に側室)であった大方殿です。
元就は大方殿を追慕して祠を建て、神として祭ったとされます。大方殿は「椙(杉)の方」との呼び名があり、祠も「椙若社」の名がついたといわれます。
宝暦10年(1760年)頃に「椙若社」として独立しましたが、文政2年(1819年)頃老朽化のため建て替えられ、和智誠春兄弟と父子の三人を祭った和智柚谷神社と合祀されました。昭和25年(1950年)に腐朽して以来、敷石だけを残していました。
毛利元就公生誕500年・NHK大河ドラマ「毛利元就」放映記念の年に有志の方々により祠が再建されました。
吉田本通り一帯を2台のだんじり屋台が練り歩きます。 壇上では子ども歌舞伎が上演される、約350年の歴史を誇る清神社の例祭です。
吉田の市入祭は清神社の大祭で、年に一度、神社の御祭神が氏子地区にお渡りする神輿の御幸が行われます。
この神輿に供奉するのが檀尻屋台です。八雲山と千歳山の二台の屋台と、吉田子供歌舞伎檀尻屋台保存会と地域の中学生によって現在まで受け継がれています。
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土師ダムを囲むスポーツ&レジャー施設の総合案内所です。関連施設の受付や地元の名産品がそろうお土産の販売も行っています。
サイクリングターミナル内には、地域食材満載の和食などをいただけるレストラン「土師さくら亭」があります。
詳しくはあきたかた観光Naviをご確認ください。
色んなタイプの滑り台があり、子どもたちに人気の遊具です。
桜まつりや花火大会などのイベントの際には屋台が出店されます。
大人から子供まで楽しめるグラウンドゴルフ場です。サイクリングターミナルで道具を借りることもできます。
湖畔に沿って3.7kmのサイクリングロードがあります。
土師ダムを紹介したビデオや土師ダムの概要を説明したパネルなどが展示されています。展望デッキからは、八千代湖に飛来する野鳥が観察できるほか、八千代湖を見渡すことができます。
利用時間 | 10:00-16:00 |
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定休日 | 木曜日 |
パラグライダーなどのスタート台として使用されています。
山頂付近の広場には、フジ棚が整備されています。100本もの花房が垂れ下がるフジ棚は圧巻です。
詳しくはあきたかた観光Naviをご確認ください。