県道29号線の道沿いに「湯原弥二郎(ゆはらやじろう)腹切岩」と彫られた記念碑がひっそりとたたずんでいます。
天文9(1540)年9月、尼子詮久(あきひさ)(晴久)は、大軍で石見(いわみ)路より吉田に侵攻し、対する毛利元就は援軍を大内氏に要請しました。
その年の9月26日に、尼子軍の武将である湯原弥二郎宗綱(ゆはらやじろうむねつな)らが軍勢を率いて、坂・戸島(向原町)方面へ進出しました。これに対し大内軍と小早川軍が応戦し、戦地北部の郡山城からも毛利軍が打って出て両方から尼子軍を攻撃しました。
湯原弥二郎宗綱は、逃げ遅れて深田に馬を乗り入れ、進退の自由を失っているところを打ち取られたと伝わる場所です。
また、毛利元就が自ら郡山合戦の経緯を記した「毛利元就郡山籠城日記」には9月26日に「湯原宗綱他数十人を討ち取った」とあります。