安芸の中世史を語る上で欠かせない山城跡
松尾城は、安芸・石見の国人領主であった高橋氏の安芸における拠点城郭です。
城域は最大400m×800mに及び、16世紀前半の城としては安芸国内では最大級です。しかし、当時毛利方と敵対していた尼子方に高橋氏が属したため、享禄3(1530)年ごろ、大内方の毛利氏、和智氏の連合軍によって落城しました。その後高橋氏は滅亡し、この地は毛利氏の所領となりました。
城跡には5箇所の郭(くるわ)や複数の堀切(尾根から攻めてくる敵を足止めする堀)、土塁があるほか加工度の極めて高い「切岸」と呼ばれる鋭い人工的な斜面が残っており、全国的にみてもこれらの遺構は落城時の姿を留める貴重なものです。
近年の調査で、中心部(従来認識されていた城域)より北側及び南側にのびる尾根上に多数の郭群と連続する竪堀(約15本)が確認され、広大な城域であることがわかりました。
また、従来認識されていた中心部の城域は丁寧なつくりで、厳重な防御機能をもたせているのに対し、新たに発見された周辺地域は加工が荒い・まとまりがないため、周辺部は臨時的に増設された可能性もあると考えられています。
城の全域が高橋氏の滅亡時(享禄段階)の遺構か、それとも高橋氏滅亡後に再利用され、拡張されたのかについては、今後の調査課題となっています。
毛利氏を凌ぐ勢力だった国人領主、高橋氏
安芸北部から石見東部にかけての国人領主。
駿河、備中を経て南北朝期に石見阿須那に入ったと言われ、藤掛城を本拠としました。戦国初期には安芸高田郡北部に進出して佐々部氏らを配下とし、一時は毛利氏を凌ぐ力を持っていました。
娘の婚姻により毛利興元(元就の兄)との関係を深めましたが、元就時代に悪化。
結果、元就ら大内方により滅ぼされますが、本城氏など一部の一族は存続していたといわれています。惣領家が滅びたため系図がはっきりしていませんが、高橋伊予守弘厚の息子が、高橋大九郎興光であったと考えられています。
ご注意 | 登城路が不明瞭なためご注意ください。 |
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所在地 | 〒731-0611 安芸高田市美土里町横田 |
標高 | 415m |
比高 | 150m |
史跡指定 | 広島県指定史跡 |
城主 | 高橋氏 |
所要時間 | 麓から山頂の郭まで約30分 |