戦国大名、毛利元就とは

毛利元就もうりもとなり(1497-1571)は、戦国時代に郡山城を拠点として中国地方のほぼ全域を制覇し、一代で大国を築き上げた「戦国の雄」と称された戦国大名です。75歳で病死するまで二百数十回におよぶ合戦をくぐりぬけ、毛利を西国随一の太守にしました。

多くの人に知られている有名な逸話、“一本の矢ではたやすく折れるが、三本束にすれば折れがたい”と、息子たちに協力の大切さを教えた「三矢の訓みつやのおしえ」や、“日を同じにし、力を同じにし、心を同じにする(一日一力一心)”と一致団結の大切さを伝えた「百万一心ひゃくまんいっしん」といった元就の逸話は、市民の心の中で生き続けています。

また、毛利元就生誕500周年記念作品として、1997年にNHK大河ドラマ「毛利元就」が製作されました。

©安芸高田市歴史民俗博物館所蔵

ゆかりの石碑

百万一心ひゃくまんいっしん

郡山城の改修に際して、元就が人柱に代わり「百万一心」と彫った石を埋めさせると工事が上手くいった、という逸話です。言葉には“日を同じにし、力を同じにし、心を同じにする(一日一力一心)”という意味があります。
幕末に長州藩士が山中で「百万一心」と彫られた石を発見し、写し取って帰ったと自書して山口県の豊栄神社に奉納しました。しかし、現在に至っても石は未発見のままで、郡山城最大の謎となっています。

三矢の訓みつやのおしえ

一本の矢ではたやすく折れるが、三本束にすれば折れがたい”と、元就が息子たちの結束を説いた有名な逸話です。

初見は江戸時代の書物で真偽は不明ですが、元就の人柄を象徴するエピソードとして定着しています。元就が三人の息子(毛利隆元、吉川元春、小早川隆景)に送った「三子教訓状」がそのルーツとも言われています。


毛利元就の足跡そくせき

安芸国の一領主にすぎなかった元就は、次々と領地を広げ、中国地方を制する戦国大名にのしあがっていく。その元就の本拠地であった郡山城をはじめ、市内各所に毛利氏ゆかりの史跡が残っており、戦国時代の足跡をたどることができる。

毛利元就は1497年(明応6)3月14日、毛利弘元の次男として誕生した。4歳の年、多治比の猿掛城に移るが、家督を継いでいた兄興元の長男・幸松丸が相次いで病死したため、1523年(大永3)8月10日、27歳になっていた元就が郡山城に入り、家督を継ぐことになった。この年には長男・隆元が誕生している。

毛利氏の飛躍のきっかけとなった合戦が1540年(天文9)の“郡山合戦”だ。山陰に勢力をもつ月山富田城(島根県安来市広瀬町)の尼子氏が9月に大軍勢を率いて郡山城の北4kmの風越山に本陣を置く。そこから4ヶ月に及ぶ合戦が始まった。

翌年1月13日、元就は宮崎・長尾で戦い、大内氏の援軍が尼子の本陣を攻め、尼子久幸は討死、当主尼子詮久はかろうじて富田城に敗走し、毛利氏は勝利を得た。1553年(天文22)には三次の旗返山城など備後地方の諸城を攻め、1555年(弘治元)10月、厳島合戦で陶氏、続いて山口で大内義長を滅ぼす。1562年(永禄9)には、ついに尼子義久らは降伏、元就は西日本最大の戦国大名となった。

中国地方平定の5年後、1571年(元亀2)6月14日、元就は郡山城において病のため75年の波乱の生涯を終えた。この時、信長37歳、秀吉35歳、家康29歳である。毛利家は孫の輝元が継いだが、1591年(天正19)広島に築城、本拠を広島に移したのである。


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