神楽とは、太鼓や笛などのお囃子と一緒に、華やかな衣装や表情豊かな神楽面をつけた人たちが、ある物語を題材にして舞うものです。
その語源には諸説ありますが、まさに文字通り “神様を楽しませる” ことが本来の目的であり、その土地の氏神様に奉納される神事として執り行われてきました。
そして、今日では催事や祝い事に欠かせない郷土芸能として、人々にも楽しまれています。
神楽は、神座に神を招き、神の力を招き鎮めることによって、生命力を高めようとする儀式です。神と人とが共に享楽することによって神の力を得ようとする神人和楽の神事です。
その起源は、一説によると、記紀神話の中の「天岩戸伝説」にまでさかのぼるともいわれています。
この岩戸の前で、天鈿女命が舞った舞こそが、神楽の起源と言われています。
一年のうちで一番太陽の力が弱まる時期に、その太陽の再来と生命の再生を願って神威を招き迎え、生命力の強化を祈願した鎮魂の儀式が、神楽の始まりと言われています。
「岩戸」のモチーフは古事記や日本書紀の中の神話であるとすると、およそ8世紀の初めには、神楽ができたのかもしれません。このように神楽は、はるか昔から人々に楽しまれてきました。
あるとき太陽の女神、天照大神が、弟の素戔鳴命の乱暴さに怒り、岩戸の中に籠ってしまわれました。
すると地上は暗闇になってしまいました。
困った神々は話し合い、天鈿女命が岩戸の前で乱舞することになりました。
これがあまりに滑稽だったので、外の神々は大騒ぎ。騒々しい外の様子が気になった天照大神は、岩戸をそっと開け様子を見ようとしました。
その時、この機を逃すまいと手力男命が岩戸をこじあけ、天照女神を外に連れ出し、地上に明るさが戻りました…。
全国各地に、さまざまな形の神楽が伝えられているなかで、安芸高田市の神楽は、出雲流神楽が石見神楽を経て、江戸期にこの地域に伝えられたと考えられます。また、その過程で、九州の八幡系の神楽や高千穂神楽・備中神楽、さらに中国山地一帯に古くから伝わる農民信仰などの影響を受けて、現在の形態になったといわれています。
その特徴は演劇性が強いという点で、極めて大衆的で、のびのびした伝統芸能に発展しました。
現在では市内に22の神楽団が神楽を舞い、舞人たちはその技を磨いています。ほぼ年間を通じて、神楽に打ち込む団員たちは「神楽で食べているの?」とよく聞かれます。しかし、団員にとっての神楽はあくまでも「祭事」。職業にしている団員はいません。
日常は各々、仕事や勉学に励み、神楽の継承と保存に大きな役割を担っています。
この大衆化が人々の神社・神に対する信仰心を繋ぎ止め、自然や神への畏敬・恩恵に対する先人の心を今に伝える大きな役割を果たしています。安芸高田市の神楽には、劇化の進展のなかにも、神人和楽という神楽の原形が息づいているのです。
旧舞とは、終戦時点で存在し、現在まで受け継がれている「阿須那手」や「梶矢手」の舞い(神衹舞および能舞)と奏楽を指します。
一方新舞とは、終戦後に創作された新作神楽(能舞)を指します。今は安芸高田市にとどまらず、芸北地域に広く浸透しています。
↑神楽が伝承したとされるルート
神楽は、米の収穫期にあわせた自然や神に対する感謝の祭りであると同時に、人々にとっては年に一度のハレの舞台でもありました。一年の苦労から開放されて、ともに生きる喜びをわかちあう祭りでもあったのです。
また、氏神社を中心に神楽団を組み、神職ではなく氏子自身が神楽を舞う安芸高田市地域の神楽の形態は、その集団内の連帯と共同意識を高める役割も担っていました。
安芸高田市では、いまでもこの氏神社を中心とした共生社会が、神楽を軸に根づいており、人間らしい助け合いを可能にする社会の基礎を形づくっているのです。
紅葉狩
出演:原田神楽団
八岐大蛇
出演:原田神楽団
百万一心で伝える~ひろしま安芸高田神楽~神楽編